茶道と禅・廓庵禅師の「十牛図」

yamashita
2018.12.10

 

はじめに

 

前々回、倶胝和尚の「一指竪」(指を立てること)の公案に少し触れました。今回はさらに進めて廓庵禅師の「十牛図」をひも解きながら、毎日を「生き生き」と過ごすための「悟り」について学びたいと思います。廓庵禅師は中国北宋時代(960年~1127年)の臨済宗楊岐派の禅僧です。

 

「十牛図」は、禅の悟りを「野牛を飼いならしていくこと」に例えて私たち庶民にもわかりやすく解説した禅書です。「心牛」の修行方法を習得すれば、ジョギングもウォーキングもお茶を点てるお点前も、日常のどのような動きも禅の修行になります。毎日が楽しくなるはずです。ぜひ習得してください。

 

 

■心の中の牛を見つけなさい「尋牛(じんぎゅう)」

 

昔若い僧侶(鏡清)が老師(玄妙禅師)に質問しました。

「はじめて道場に参りました。禅の修行はどこから入ればよろしいでしょうか?」

玄妙答えていわく

「あの沢の音が聞こえるか?」

鏡清

「はい」

玄妙

「ならば、その沢の音から入りなさい。もし音が聞こえないなら、あなたが今立っているところから入ればよろしい(照顧脚下)」

「今立っているところから心の中の牛とともに歩きだせばよい」

「心の中の牛「心牛」はだれの中にもいる。「心牛」に背いて眼を外にばかり向けてはならない。自己の内へ内へと向けていくのが禅の求道なのだ」

 

 

■牛の歩みを観なさい「見牛(けんぎゅう)」

 

「世界で起こるさまざまな現象を観察しなさい」

ある日、老師が説法をするため壇上にあがりました。

すると、どこからともなくキレイな鳥の鳴き声が聞こえてきます。

老師は「今日は、鳥がええ説法をしてくれたわい」

そう言って一言も説法をせずに檀上から降りました。

先ほどの玄妙禅師の「沢の音から入りなさい」も同じ意味です。

あらゆる現象の中に「心牛」を観ることが修行のポイント。そうすれば、自他の境界が消失して「そこにあるモノ」「そこから動き出すモノ」として自己と「心牛」の姿が立ちのぼってくるはずです。

「今立っているところから歩きだす」とき、自身の歩みと心の中の「心牛」の歩みを重ね合わせて観ることが「見牛」という悟りの妙境であると、廓庵禅師は言っています。

 

 

■心牛を自己の中に体得する「得牛(とくぎゅう)」

 

 

「心牛」を自己の内に見つけたら、心牛一如をはっきりと自己に体得させなくてはいけません。つまり、牛を確実に捕まえて自分のモノにするのです。

得牛の段階では、自身のカラダの動き「一挙手一投足」に「心牛」を落とし込みながら、「心牛」とともに前に進むことを体得します。

廓庵禅師は「得牛」の悟りの妙境について「座禅による禅の修行は比較的たやすいことだが、動きながら修行を積むのは至難の業である」と言っています。今立っている場所から「心牛」とともに動き出す鍛錬が必要です。

 

 

■牛を飼いならしていく「牧牛(ぼくぎゅう)」

 

 

心の中の牛を見つけて一緒に歩む悟りまで到達できたとしても、「心牛」を飼いならし、「心牛」として生きることは容易ではありません。「心牛」として生きるというのは自身が主体となって生きるという意味です。

 

ここで良い事例となるのが倶胝和尚「一指竪」の公案です。

倶胝和尚は弟子から何を質問されても「ただ指を立てること」だけで返答しました。

そればかりか、老師は死ぬ間際にこんなことを言っています。

「我、一指頭の禅を得て一生受用不尽」(私は『一指頭の禅』によって生涯尽きない宝を得た)

この「一指竪」こそ、自身が主体となって生きるということを表しています。

 

 

まとめ

 

「今立っているところから歩き出しなさい。心の中の牛とともに」「心牛を自身のカラダの動き『一挙手一投足』に落とし込みながら、心牛とともに前に進むことを体得しなさい」今回の「十牛図」を要約するとこのようになるでしょうか。

 

心の中で牛の歩みを想像しながら行動してみましょう。ウォーキングでも、ジョギングでも、お茶を点てるときでも、仕事でもかまいません。心の中の牛と行動をともにすることで、動きの一挙手一投足が主体的(今ここから動き出すこと)で意味のある禅の修行へと変化するはずです。

 

 

 

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