はじめに
「禅と結びついて発展してきた茶道シリーズ」。前回までは「安心の問題」について触れてきました。ここからは毎日を「いきいき」と過ごすための極意を禅の教えから学びたいと思います。
禅の修行でも茶道の修行でも、常に新鮮な気持ちで立ち居振る舞うことが求められます。茶道は宗祖である「千利休」のお点前をお手本にしています。「千利休」にとってお点前は一瞬一瞬、自分自身を常に新しい閃光として自覚するための儀式でした。
宗祖である「千利休」のお点前を弟子たちが様式化し現在まで受け継いできたわけですが、様式や形式を受け継ぐだけでは形骸化は避けられません。本質的なものを体験できないただの模倣に陥ってしまいます。
今回は、「千利休」がお茶の道を追求した頃の禅にも茶道にも通じる「自分自身を常に新しい閃光として自覚」するための「言葉と現象と行い」について解説していきます。
■私たちは「阿頼耶識」(あらやしき)の囚われ人
「阿頼耶識」(あらやしき)というのは、人間の生死、地球上に存在するモノすべての根底に横たわっている世界の根本を指します。自分の意識と世界の意識とが同質となって併存する世界です。
私たちの肉体は主にタンパク質と水で形成されていますが、地球上には他にも岩石や金属などさまざまな物質があります。鉄や岩石、空気、タンパク質、水などが分け隔てなく同じ物質になって存在する世界が「阿頼耶識」です。
仏教では「阿頼耶識」以外に「空」と呼ぶことがあります。般若心経でいう色即是空のことです。または因果応報「運命」なども「阿頼耶識」に入ります。
禅では「阿頼耶識」に囚われている自分から脱出するために「公案」という厳しい修行を行ってきました。
■阿頼耶識の中に確かなものを探す
禅では、雲水たちに「阿頼耶識」とは何なのか、自分たちが「阿頼耶識」に囚われている状態であることを自覚させるところから修行がはじまります。
今からさかのぼること1000年以上昔、中国の唐の時代に洞山禅師という禅僧がいました。洞山禅師は幼少の頃から仏門に入り村の僧侶について学んでいたのですが、「般若心経」の「無目鼻舌身意」(目も鼻もない)というくだりに差しかかったところで老師に質問します。
「私には目も鼻もあります。どうして経では無いと言うのですか?」。老師はこの子は見どころがあると思い名高い霊黙禅師のもとへ送ります。これが洞山禅師の禅門に入るきっかけです。
禅門に入った洞山は、「無目鼻舌身意」(目も鼻もない)という経の教えに対して「目も鼻もあるのにどうしてなのか?」という疑問を持ちつつ、一方では「無目鼻舌身意」(目も鼻もない)という経の教えは真実なのか?「本当は無いのかもしれない」という疑問が自身の内に湧き起こります。
いったいこの鼻は何のことなのか?当たり前だと思っていた言葉が当たり前でなくなる。「阿頼耶識」の坩堝の中で思い悩んでいた洞山はある日、川面に映った自分の姿を見て悟ったといわれています。これが禅で語り継がれている「洞山過水」の大悟です。
「阿頼耶識」の坩堝の中で確実なものは何なのか?禅の修行では、わかり切っていることを根底から覆すための問いを常に投げかけます。「これは何ぞ」「お前は何者ぞ」。
悶々とした「阿頼耶識」の中で、ある雲水は鍵の輪を机上に投げ、「ガチャ」という音で大悟しました。またある雲水は、薪割りをしている最中に積んでいた薪が崩れる音「ガラガラ」という音を聞き、崩れる様子を見て大悟しました。瓦の欠片を投げて竹にあたり「カチン」と音をたてたのを聞いて大悟した禅僧もいます。
疑問だらけの「阿頼耶識」の中で確実なモノとはいったい何なのでしょうか。確実なモノは「目の前で起こる現象を目撃すること」と「自分自身が行為すること」の2つしかありません。この2つは「阿頼耶識」の裂け目から湧きおこってくる唯一の根源語です。
「ガチャ」「ガラガラ」「カチン」といった目の前で起こる現象、または禅でいう「一指を竪」とは指を立てる行為のことを指しますが、これは「指」を象徴として見るのではなくて、「指」を立てるその動きを見なくてはいけません。指を一本立てるその出来事が、そのまま「阿頼耶識」の中から現前する根源語なのです。
まとめ
「指を一本立てるその出来事」という部分で何かワクワクするような気持になりませんでしたか?ワクワクしたという方は、今回の難解な禅問答を理解したことになります。茶道のお点前の一挙手一投足も、本来はワクワクする「行い」でなくてはいけません。禅でしばしば使われる「喝」という言葉は、「目の前で起こる現象を目撃すること」と「自分自身が行為すること」の2つを指す根源語です。