もしも本物の織部焼が家にあったなら

yamashita
2019.06.29

はじめに

「ひょうげもの」として知られる古田織部。「ひょうげもの」とは「変人」という意味です。織田信長に仕え、戦国武将としての野心を夢見ながら、一方で芸術や文化を愛する数寄者の一面を併せ持つ鬼才。今回は古田織部の作品をご紹介します。

 

 

古田織部について

古田織部として知られる古田重然(しげなり)は、天文12年(1543年)に美濃国(現在の岐阜県)の国人であった古田重安の弟古田勘阿弥の子として誕生しました。

織部という名前は、従五位下「織部助」の位に由来しており、手紙などには「古織部」や「古田織部助」「古田宗屋」と署名していました。

古田織部が、茶人として茶会記に登場するのは40歳を過ぎてからです。

古田家はもともと美濃国の守護大名土岐氏に仕えていましたが、織田信長の勢力拡大にともなって織田氏の家臣となり、信長亡き後は豊臣秀吉に仕えました。

天正10年(1582年)に記された千利休の書簡にはじめて古田織部の名前が登場することから、この頃千利休に弟子入りしたものと考えられています。

千利休に弟子入りして、わずかな年月で利休七哲に数えられる茶人・数寄者にまで成長したことになります。

古田織部がプロデュースした織部茶碗は、この頃に彗星のように登場して、織部の死とともに消滅しました。

織部焼の陶工は、戦国の乱世を駆け抜けた戦国武将たちだったという説が有力です。おそらく、戦のないときに土をひねっていたのでしょう。

謎に包まれているところも織部焼の魅力の一つです。

 

 

黒織部沓形茶碗 銘 わらや

織部茶碗
出典:五島美術館

 

「銘わらや」は織部焼の中でも黒茶碗と呼ばれるもので、ろくろで成型したあと、全体を楕円形に押して変形させた沓形茶碗です。

白い部分は長石釉、黒い部分は鉄釉を浸し掛けしています。

大きさは口径14㎝~10㎝ほど、高さは6㎝~8㎝。

もしあなたのテーブルにこの器があったら、何を盛りますか?

私だったら、鱧とあとは鯛のお刺身、珍味を数点きれいに盛りつけて、日本酒をちびちび飲みながら最高に贅沢な時間を過ごしてみたいです。

 

 

鳴海織部扇面鉢

鳴海織部扇面鉢
出典:ORIBE美術館

 

扇の形をした典型的な鳴海織部釉の作品です。

金山城下旧家伝来のものと伝えられています。

鳴海織部釉は、釉薬を何層も重ねることで重厚感をもたせ、ねずみ色の発色を際立たせる技法です。

現代の織部写しのような薄っぺらな感じがしません。

あとこの幾何学模様、どこからこんな文様の発想が生まれたのでしょうか。

この器に生菓子が盛られてまわってきたら、びっくり仰天することでしょう。

 

 

織部笹透かし長角筒向付

織部笹透かし長角筒向付
出典:ORIBE美術館

 

現代でも通用するモダンなデザインの向付けです。

高さは11㎝、この器も金山城下旧家伝来のものと伝えられています。

ハートの部分と笹の葉の部分は透かし彫りになっているので、汁物や飲み物用の器としては使用できません。

もしこの向付が家にあったなら、何を盛りつけてお客様をもてなしますか?

お客様は箸を長めに持ち、のぞき込むようにして中の肴を食べなくてはいけません。

光が底の方まで届くように片方の手で器を持って傾けながら食べる。

いろんな仕掛けがありそうです。

 

 

まとめ

開運なんでも鑑定団という番組が好きでよく見ています。過去に本物の織部茶碗だと鑑定されたことが一回だけあったことを記憶しています。鑑定額はたしか1000万円。やはり手が出せない金額ですね。持ったら持ったで管理が大変そうなので、たまに美術館に見にいく程度で我慢しておきます。

 

 

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