運命に抗い続けた名馬【サンデーサイレンス】が日本に輸入されるまで

馬の耳に小林
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2024.09.12

日本競馬を語るにあたり、欠かせない大種牡馬「サンデーサイレンス」。競馬を少しでもかじったことがある方なら、この競走馬の名前を知らない方はいないのではないでしょうか。

今回は、現代の日本競馬の盛り上げの立役者であるサンデーサイレンスが、どのようにして日本と縁を結ぶことになったのかをご紹介します。

 

運命に抗い続けた馬サンデーサイレンス

※画像:筆者撮影

サンデーサイレンスは、誕生から波乱の渦にいました。1986年アメリカ生まれ。気性難で知られるヘイローを父に、それまで血統登録できる子を産むことができなかったウィッシングウェルを母にもち、血統的に目立って注目を集める要素はありませんでした。

誕生後すぐに、ウイルス性の腸疾患に罹患し生死をさまよったほか、馬格が華奢な上、両後脚が内側に極ひどく湾曲しており、父譲りの気性難という点も相まって、競走馬としての期待は薄く、生産者からも所有を拒絶されるほどでした。

1歳時・2歳時にセールに出されましたが、まともな買い手がつかず買い戻しに。続くセール出品への道中で、馬運車の運転手が心臓発作を起こし大きな事故に遭います。多数の馬が命を落とすなか、サンデーサイレンスは一命を取り留め動物病院で療養します。

 

競走馬としての成功へ

※画像:筆者撮影

命の危機を2度も乗り越えたサンデーサイレンスは、その後名伯楽チャールズ・ウィッティンガム師から調教を受け、2歳の10月に競走馬としてデビューを飾ります。

調教中は、気性難がゆえ、後ろ足で立ち上がったり跳ね上がったりが日常茶飯事でしたが、ウィッティンガム師は、サンデーサイレンスが秘めている意志の強さや機敏さ、スムーズな加減速が可能な器用さなどを見出していたとされています。

デビュー戦こそ2着に敗れたものの、その後は華々しい戦歴を重ね、靭帯を損傷してターフを去るまでの3年間の全レースで連帯を外さず、GⅠも6勝を挙げました。出生時に人々から受けた酷評を跳ねのけて輝かしい結果を残したため、サンデーサイレンスを「みにくいアヒルの子」に例える人もいます。

 

日本競馬史上最も偉大な大種牡馬

※画像:筆者撮影

引退後は、華々しい結果とは裏腹に、サンデーサイレンスの血統面や見栄えしない馬格などを理由に、アメリカの馬産家達からは種牡馬として評価されず、シンジケートに失敗。その頃、サンデーサイレンスのオーナー牧場が多額の負債を抱えていたことや、湾岸戦争で中東の競馬生産界が荒廃していたことなどのタイミングも重なり、日本の競走馬生産者であり、社台グループの代表でもあった吉田善哉氏の「サンデーサイレンスを買い取りたい」という熱望が叶うことになります。

アメリカの馬産家の多くは、吉田善哉氏が種牡馬として到底成功しそうにない馬を多額で購入したと嘲笑したとされていますが、吉田善哉氏は当時「いい買い物をした自信がある」と言葉を残しています。

※画像:筆者撮影

社台グループは、応募馬と所有している名牝との繁殖を進め、初年度の77頭からスタートし、4年目には118頭との交配を果たします。残念ながら、吉田善哉氏はサンデーサイレンス産駒のデビューを見る前に他界してしまいますが、デビューした産駒は初年度から好成績を残し、G1馬も輩出。デビュー年の1994年は、新種牡馬ランキングで1位を獲得します。その後の産駒の記録はいわずもがなで、サンデーサイレンス自身も13年連続でリーディングサイアーに輝き、いまだにその記録は破られておらず、日本競馬史に残る大種牡馬になりました。

現代の日本競馬で勝利を挙げている競走馬のなかにも、サンデーサイレンスの血を受け継いでいる馬がたくさんいます。吉田善哉氏の言葉通り、サンデーサイレンスの日本への輸入は、社台グループのみならず日本競馬界にとって「いい買い物」だったと言えるでしょう。

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