高山寺は京都の市街地より北西の山中である栂尾に位置し、周辺は紅葉の名所と知られる高雄と呼ばれる地域にあります。高山寺の位置する栂尾は、古くから修行の場として知られており、起源は奈良時代に遡る古刹として知られています。この寺院をなぜ今回取り上げたかと申しますと、高山寺は由緒ある寺院というだけではなく、明恵上人が創立したお寺であることから取り上げてみました。
高山寺が栂尾にできた成り立ち
明恵上人が高山寺に居を構える前は、このお寺はこの近くの神護寺の別院として位置づけられ、隠遁修行の場となっていました。
時代が遡り、建永元年に明恵上人が後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられます。その時、明恵上人は後鳥羽上皇から次のような額を下賜されています。
「日出先照高山之寺」。
この意味は「朝日が昇って、まず一番先に照らすのは高い山の頂上だ。」というものでした。後鳥羽上皇は明恵上人に、この寺をこの言葉に従って、その意に沿うような寺であれ、と説いているのでした。
お茶の祖であった明恵上人
栂尾の地で創立されたとする高山寺は、実はお茶と深い関係があるのをご存じでしょうか?
明恵上人は、禅寺の栄西禅師の元で修行をしてきました。この栄西禅師は、実は中国の宋からお茶を持ち帰った人なのです。これが日本にお茶が広まった起源です。
栄西禅師からお茶の実を授かった明恵上人は、お茶の栽培に適したこの高山寺に、日本で初の茶園を開きます。お茶の効能は神経を覚醒させる作用を持ち、修行僧の眠りを妨げ覚醒させるので良い、ということからお茶を栽培し始めた明恵上人。山の気候を活かしてお茶を栽培し始めます。当時は栂尾のお茶を本茶とし、それ以外で栽培されたお茶は非茶と呼ばれていました。狂言「茶壺」にも演じられるほどで、宇治より前に栂尾がお茶の名産地であったことが分かります。そんな歴史的な背景がある高山寺では今もなお、5月の中旬になると茶園の茶摘みが行われます。
現存する明恵上人の唯一の遺構である石水院
日本でお茶を本格的に栽培をした明恵上人は、高山寺の石水院という建物に居を構えます。
この高山寺で唯一、明恵上人が創建した当時の様子が伺える建物でもあります。
石水院は、桁行正面三間、背面四間、梁間三間、正面一間通りの向拝が付けられた拝殿の様式になっています。屋根は入母屋造り、透かし彫りの蟇股(かえるまた)や舟肘木(ふなひじき)、庇の縋破風(すがるはふ)には鎌倉時代の建築様式の特徴がみられます。寝殿造りの建築の特徴として、壁が外周になく、周囲は蔀戸(しとみど・水平に跳ね上げて開閉する扉)を引き上げることで外部と開放され、室内から庭を一望することができます。
石水院は時代によって、その使われ方を変えていき歴史の中で幾度となく改造を繰り返されています。創建当初は経蔵として建築されたあと、寝殿造りの住居形式に改造をされ、向拝を備えることで、社殿としても使われていました。現在屋根はこけら葺きですが、石水院の天井に使われていた板に雨の後があることから、この天井材も屋根材として使われていたものを転用されたものだと考えられています。
石水院は、高山寺が創建された当時の明恵上人の遺構だと伝えられている事から、高山寺の中で唯一国宝に指定されています。
世界遺産でもある高山寺は文化財の宝庫
高山寺には他に文化財をとても多く抱えているお寺であり、中でも有名なのが、鳥獣戯画(国宝)と言われています。甲乙丙丁の四巻で構成されている絵巻物で、特に有名なのが、擬人化されたウサギやカエルといった動物が生き生きと描かれた甲巻になり、皆さん見られた事があるかと思います。この鳥獣戯画は動物を擬人化することにより、当時の社会を風刺した日本最古の漫画とも呼ばれています。
高山寺には石水院の他、開山堂、金堂、遺構庵などがあり、それぞれが高山寺の歴史の中で建築されてきました。遺構庵は昭和6年に当時の住職が明恵上人700年遠忌の折に際し、高橋箒庵(たかはし そうあん)ら全国の茶道家100人の篤志によって建築されたものになります。
アクセス
JR京都駅からJRバス高雄・京北線「栂ノ尾」「周山」行で約55分
(途中、四条大宮・二条駅前・円町などを経由)、栂ノ尾下車。
〇京都市営地下鉄烏丸線四条駅から、市バス8系統で約50分、
高雄下車、徒歩約15分。
〇栂ノ尾バス停近くに市営駐車場があります。50台(無料)※11月のみ有料
嵐山高雄パークウェイは有料、営業時間8時〜20時(季節によって変更あり)